「なぜ,建築家の道を選んだのか」と題し、コラムの連載を始めました。
連載コラム「なぜ、建築家の道を選んだのか」第1回(2010/01/20)
子ども時代から設計事務所に入るまで ちょっと遠回りをしてたどり着いた道ともいえるし、
石につまづいて怪我を治すのに時間が掛かった道でもあったが、選んだ判断に間違いはなかった。
苦しくても、楽しい、つまずいて怪我をしても、治ってしまえば全て忘れるぐらいに面白い道だ。
と、72歳になった今も実感している。
母の弟(存命だったら100歳位)が家具のデザイナーであったため、敗戦後間もなくの小学生の頃遊 びに行くと
書斎らしき狭い部屋の壁一面に家具の絵が張ってあり、そこを通って座敷に行く。
本物みたいにきれいに描かれたそれらは当時の日常では目にしたことも聞いたこともない家具だったと、記憶している。
叔父には子どもがいなかったためか、歓迎してくれたことに甘えて、ちょくちょく行ったらしい。
しかし、それ以上のことは何もなかったのだが 設計図面を目にした原風景にはなっている。
やがて中学時代、
冬休みの宿題で単純な「家」の模型を作った。
当時いきなり飛び込んできたアメリカ文化に感化され,洋風の家を造り、屋根を外すと室内の小さな出来損ないの家具が
見えるものだった。
その家具は端切とボール紙、模型用の材料で
テーブル、イス、ベッド。
しかし実際の生活では触ったこともない、そんな時代だった。
やがて、本格的に進路を決める時期に来て困った。
進路相談をすれば、担任は「君は物理と数学が良くないが社会、国語、語学は良いので文系を受けなさい。」
このひと言で、
建築を目指していた当時の自分にはつらかった。
そして、一旦自信を失った結果建築への道は諦めざるを得なかった。
ところが、文系を受験した結果は1校だけ合格したが、悩んだ結果浪人を選んでしまった。
翌年は、理系を受験したが建築学科ではなく電気学科に合格してしまった。
もう断れない。
2年間、当時は一般教養期間を過ごし、いよいよ専門学科になる3年を迎える時に本当に悩んだ。
電気は苦手、どうしても建築を勉強したいという思いを消し去ることが出来ず、思い切って転部の受験をし運良く変わることが出来た。
そのわがままの代償は1年卒業が遅れることだった。
この遅れで結局2年を棒に振ったことになったのだ。
(日本中が貧乏な時代で大変・・・)
ようやくの思いで入った建築学科の学生たちは、もう、いっぱしの建築士の集団だった。
設計図はうまい、パースも巧い、自分は全く手が出なかった。
そこで講師に相談したところ「テクニックは事務所に入れば必ず身に付くよ。
建築そのものをたくさん見て歩きなさい」と、落ち込む青年を適当に力づけてくれたのはありがたかった。
(今でもそのひと言に、感謝!感謝!)
そして、その講師は
肢体不自由者の施設に必要な様々なデータ集めをするということを知り、卒業論文はそのゼミに加わった。
こんなデコボコ道を、もたもたと歩き、建築の世界に飛び込んだのだった。
そこには、つらくても実に面白い世界が待っていた。
(お金には縁がない世界)
面白い世界とはなんだったか、 それは非常に人間臭い、生身の人と触れることが出来る世界だった。
言い替えれば、数理で割り切れない世界。
やはり文系なのだった。